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写真:どんぐりクリニックの駐車場周辺には、亀山公園から拾ってきたどんぐりを植えています。
どんぐりが大きな木に育っていくように、私たちも皆様からのご意見を糧にして、少しずつ成長していきたいと考えています。

かめやまクリニックの理念について

  1. 来院されたすべての方に、わかりやすく安心感のある医療を提供します。
  2. 学問的な裏づけを重視しつつ、既成の枠に捉われない実際的な医療を行います。
  3. 来院される患者様およびスタッフ一同、すべてがひとつの家族であるとの意識で、日々の診療を行います。

1.来院されたすべての方に、わかりやすく安心感のある医療を提供します。


 私が長崎大学医学部の2年生のときに、母が乳がんに罹患しました。長男である私が大学進学のため家を出て、寂しい思いをしているなかで、癌を宣告され、長期の入院生活を送り手術を受けるということは、どんなにか不安であったろうと思います。幸い、癌は完治したのですが、その後、私が、帰省するたびに、母からこんなことを聞かされるようになりました。
「浩一、患者さんは、何故、病院に行くのか分かるかね。みんな、不安で不安でしようがないから、病院に行くんよ」
「不安な気持ちを抱えて病院に行って、先生の顔をみたら、それだけで、ほっとして気分が軽くなるような先生がいる。そんな先生になりなさいよ」

 以上のことは、私が医学部の学生の頃から、何度も繰り返して聞かされましたが、当時は、さほど重要なこととも思わず、いつも聞き流していました。ところが、医者として経験を重ねるうちに、徐々に、母のこの言葉が身にしみて感じられてくるようになりました。毎日の診察の際に、身体に現れた病気の状態ばかりを診るのではなく、患者さんの心の面にも目を向けていくと、「患者さんは、不安だから病院に来られる」という言葉は、非常に核心をついた言葉だと思うようになりました。そして、「その不安感を少しでも解消してあげること」は、目に見える病気を治すこと以上に、医療に携わる者の重要な責務のひとつであると思うようになりました。これが、私の「安心感のある医療」という言葉にこめた想いです。

 一方、これとは別に、勤務医として20年弱の経験のなかで、耳鼻咽喉科の診療というのは、なんと分かりにくい、不親切な診療であるかということを、常に感じ続けていました。医療以外の他の多くの専門分野にも共通していえることですが、現代では、その職に携わっている専門家と、それ以外の方との間の情報の質や量に大きなギャップがあり、なかなか情報を共有しにくいという現状があります。耳鼻咽喉科診療では、それに加えて、そもそも診察した所見の内容が、医師本人にしか分からないという欠点がありました。医師が額帯鏡を使って、耳の中を覗いてみて、「急性中耳炎をおこしているので、鼓膜切開をする必要があります」といったとします。患者さんは、自分では、その鼓膜の状態を見ることができないので、ただ、医師の言葉を信じるのみです。医療というのは宗教ではないのですから、私は、このようなやり方が嫌でたまりませんでした。ところが、幸い、医療機器の進歩に伴い、耳の中、鼻の中、のどの奥など、耳鼻科医がこれまで肉眼で見ていたところのほとんどに、内視鏡が使えるようになりました。

 耳鼻咽喉科の診療のなかに、徹底的に内視鏡を取り入れることによって、自分の見ている全ての所見を、患者さんご本人にも、また治療に当たるスタッフにも見てもらうことができるような形の診療をやりたい。勤務医としての最後の数年間、私は、このように思い続けてきました。しかし、このような仕組みを作ろうとすると、病院全体のシステムから変えていかなければなりません。多くの診療科が並存するような病院でこれを実現するのは、非常に困難です。私が開業しようと思い立った理由のひとつには、自分の診療所であれば、どのようなシステムでも自由に作ることができるということがあります。そのため、開業に当たっては、電子カルテや画像ファイリングシステムとそのネットワークをどのように構築するかということを最優先事項としました。ひとつひとつの医療機器の購入でも、それ自体の性能ばかりでなく、それが全体のシステムとうまくマッチして動くのかどうかということを考慮にいれて選定作業を行いました。幸い、この「患者さんに見ていただく」という診療の仕組みは、当初描いていた理想の70%くらいは達成できていると思います。これが、私の「分かりやすい」診療という言葉の意味です。


2.学問的な裏づけを重視しつつ、既成の枠に捉われない実際的な医療を行います。


 今から10年ほど前、「癒す心、治る力」という本が、大変評判になったことがありました。アメリカのアリゾナ大学の教授であるアンドリュー・ワイル博士の書いた「Spontaneous Healing」という本の邦訳で、原著も、アメリカでベストセラーとなっています。アンドリュー・ワイル博士は、代替医療の分野の先駆者として有名な先生です。代替医療というのは、いわゆる西洋医学以外の医療、すなわち、伝統医学や民間療法などのことをいいます。「これらの伝統医学や民間療法などを、頭から迷信と決め付けるのではなく、また逆に、妄信してしまうのでもなく、客観的、科学的に検討して、よいものは取り入れていこう」というのがワイル博士の考えであり、当院も基本的には、このスタイルで診療を行っていきたいと考えています。

 現在、代替医療は、正式な学会もできていますし、最近の医学のなかの大きな潮流のひとつといってもよいかもしれません。私は、この「癒す心、治す力」で代替医療に興味を持ち、続いて「ディベート討論 代替医療はほんとうに有効か」という本を読み、非常な興奮を覚えました。アンドリュー・ワイル教授とハーバード大学のアーノルド・レルマン教授との、代替医療をめぐる公開討論がアメリカで行われたのですが、それを日本語に翻訳したものが、この本です。この公開討論のなかで、科学としての西洋医学の優位性を理路整然と主張するレルマン博士に対して、ワイル博士は、現実に患者が治るかどうかということを重視する観点を主張しています。

 医学は科学であり、疾患の概念、分類、治療などを科学的手法で理論づけていきます。しかし、その理論に捉われて教条的になってしまうと、それは、逆に非科学的な態度となってしまいます。そもそも、現代の西洋医学で解明し得ている範囲では、生命自体はもとより、肉体の構造、機能についても、そのごく一部が分かっているに過ぎないのです。西洋医学であれ、代替医療であれ、謙虚な気持ちで、それらに接し、よいと思われるものは、何でも積極的に取り入れていく。それが、必ずしも学会標準のやり方でなくても、必要なものは取り入れるという姿勢を持ちたいと考えています。あくまで、目的は「治す」ということであり、治療を教科書通りに正確に行うということ自体が目的ではないわけです。

 開院に当たって、自分の理想とする医療とは何かを考えていったときに浮かんだのが、以上のような考えです。これを言葉に表したものが、理念の二番目の「学問的な裏づけを重視しつつ、既成の枠に捉われない実際的な医療を行う」です。


3.来院される患者様およびスタッフ一同、すべてがひとつの家族であるとの意識で、日々の診療を行います。


 医師としての1年目、私は、防府市にある山口県立中央病院(現在の県立総合医療センター)で勤務医として働きはじめました。新患の問診をとり、検査の指示を出すのが、午前中の主な仕事でした。ところが、高齢者の方は、レントゲンなどの検査に送り出したきり、なかなか診察室に戻ってこないというようなことが、よくありました。途中で順路を間違えて、院内で迷ってしまうのです。

 丁度その頃、私の父が大腸癌と診断され、入院することになったという連絡が入りました。自宅近くの国立下関病院(現在の関門医療センター)の外科に入院が決まったというのです。幸い、防府市から下関市までは車で高速を飛ばして1時間ちょっとの距離です。日曜日で当直や待機に当っていないときには、見舞いにいくことができました。病室で見る父の姿は、我が家の大黒柱として働いていた父ではなく、すっかり、一人の老人患者になってしまっていました。

 父が入院してからは、仕事中も、ふと父のことが頭に浮かびます。父が病院で検査を受けたときにも、やはり院内で迷って、若い職員に検査室の順路を尋ねたりしたのだろうか。忙しい職員から事務的な口調で説明されても、内容が理解できずに困ったりしなかったろうか。何度も聞き返して、職員から怒られたりしなかったろうか。そのようなことを、ぼんやりと考えているうちに、涙が出てくるような気持ちになることがありました。

 私は、研修医として働きはじめた最初の頃、高齢者の方の診療があまり好きになれませんでした。「なぜ、もっとテキパキと指示通りに動けないんだ」というような不遜な気持ちが、どうしても湧いてきて、時には、説明する口調のなかにも、そんな気持ちが出ていたと思います。ところが、父が入院してから後、自分や看護師の説明が理解できずに、まごついたりする高齢の患者さんをみると、ときに、それが自分の父の姿と重なってくるのです。そうすると、何故か、その患者さんが、いとおしくてたまらないような感じになってきて、イラついたりするような気持ちがすっかりなくなってしまうというような経験をしました。

 同じ患者さんであっても、自分の見方が変わると、相手が全く変わって見えてきます。人間は、他と接する際に、無意識のうちに、自分の内側の存在と外側の存在というような区別をしているのではないかと思います。「ああ、かわいそうだ」「いとおしい」というような共感の感情は、相手が自分の内側の存在であるときに、始めて生じるものではないかというようなことを、そのときから考えるようになりました。

 「いつでも、誰に対してでも、それを自分の内側の存在と考えうるようになる」というのは理想ですが、現実には、なかなか出来るものではありません。しかし、かめやまクリニックにおいては、私を含め、スタッフ一同が、それを努力目標として掲げてみよう。そして、私自身、患者さんに対しても、クリニックのスタッフに対しても、可能な限り、そのような気持ちを持ち続けていこうと思っています。これが、理念の三番目の「来院される患者様およびスタッフ一同、すべてがひとつの家族であるとの意識で、日々の診療を行います」という言葉にこめた意味です。

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